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池袋

池袋(いけぶくろ)は、東京都豊島区に所在する池袋駅を中心とする東京有数の繁華街。豊島区における交通・商業・行政の中心的な地域である。 行政地名としての池袋は池袋駅北西に位置する町名であり、一丁目から四丁目まで存在する。一般的に繁華街としての池袋は池袋駅周辺の南池袋・東池袋・西池袋といった地域を含む。

池袋は、新宿・渋谷と並ぶ山の手の3大副都心の一つ。池袋駅を中心に駅の東口及び西口には大規模な繁華街が広がり、巨大な百貨店や専門店、飲食店などが局在する。北口および東口サンシャイン通り裏手、同明治通北側一帯には大規模な歓楽街が広がり、サンシャイン60(サンシャインシティ)や豊島区役所などの超高層ビルが建ち並んでいる。東口にはビックカメラ池袋本店やヤマダデンキLABI1日本総本店池袋が位置し、家電量販店の激戦区になっている。他にもラーメン激戦区・書店激戦区としても知られる。2020年7月には旧豊島区役所跡地周辺に超高層ビルのHareza Tower と東京建物Brillia HALL をはじめ8つの劇場を含む文化にぎわい拠点「ハレザ池袋」が開業した。また池袋駅西口では三菱地所による「池袋駅西口地区再開発事業」が計画されており、超高層ビル3棟が駅前に建設される予定となっている。 東口方面には西武池袋本店、池袋パルコ(本店)、サンシャインシティ(サンシャイン60)、豊島区役所等、西口方面には東武百貨店池袋店(本店)、ルミネ池袋(旧称メトロポリタンプラザ)、東京芸術劇場、池袋西口公園等がある。 1885年に日本鉄道が赤羽駅 - 品川駅間に品川線(現在の山手線の一部・赤羽線〈埼京線の一部区間〉)を開業させたが、当時の池袋周辺は東京市郊外の田園地帯であり、品川線開業当時は駅すら設置されなかった。1903年に池袋駅が開業し、その後東上鉄道(現在の東武東上線)や武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)が乗り入れ、鉄道の結節点としての機能を高めていった。1923年に発生した関東大震災を契機に震災被害の大きかった下町から、武蔵野台地上で地盤の強い西武新宿線や東武東上線沿線の郊外エリアに転居する人が増加し、それに合わせて新宿駅や渋谷駅と同様に池袋駅の利用者数も増加の一途を辿ることとなった。 現在の池袋駅は4社8路線からなる巨大な鉄道ターミナルであり、池袋駅の一日平均乗降者数は約271万人(2007年度)である。これは新宿駅・渋谷駅に次いで世界3位である。池袋駅は埼玉県方面に伸びる路線が多数乗り入れ、埼玉県からのアクセスがよいため、通勤・通学・買い物で利用する埼玉県民が多い[1]。また池袋駅の駅ビルが発達し、駅だけで買い物などが事足りてしまうため、新宿や渋谷と比較して面的な街の広がりが小さいことを揶揄して「駅袋(えきぶくろ)」と言われることもある[2]。池袋駅北側にある「いけふくろう」は池袋の待ち合わせ場所として知られている。 池袋駅西口(北)方面には観光地化されていない中華街が広がっており、中国から直輸入した食品・書籍や本場同様の料理を提供する店が存在する。例えば、友誼商店,陽光城,中文書店,知音食堂,串串香麻辣湯など、在日中国人が日常生活で利用する店が営業している。また、在日中国人によるビラ配り等も散見される。 アニメイト池袋本店や乙女ロードを中心として東口には若い女性を対象にしたアニメグッズや同人誌などを扱う店舗が密集しており、秋葉原が男性を中心としたおたくの街なのに対し、池袋は女性おたくの街としても認知されている[3]。 池袋駅から少し離れると立教大学(西池袋)、帝京平成大学(東池袋)、重要文化財に指定されているフランク・ロイド・ライト設計の自由学園明日館、多くの著名人が眠る雑司ヶ谷霊園などの緑や文化財も多く、池袋演芸場などの寄席や小劇場もある。

現在の池袋駅西口のホテルメトロポリタン一帯(西池袋1丁目)に存在していた袋型の池が袋池(丸池)と呼ばれており、それが地名の直接の由来となったとされている。ただし当地は旧雑司ヶ谷村であり、池袋のもともとの中心部だったといえる池袋本町(かつての本村)からは離れているため、この説には異論がある[4]。なお、丸池は時代を追って縮小され、70年代中頃までは現在のホテルメトロポリタン北側に存在した「元池袋公園」内に空池(からいけ)の状態で残っていたが、現在は完全に埋め立てられ、地名由来とされる池を偲んで、元の場所より東側の隣接地に元池袋史跡公園が開設された[5]。

古くは武蔵国豊嶋郡池袋村といい、戦国時代の古文書である『小田原衆所領役帳』(永禄2年・1559年)には「太田新六郎 知行 三貫五百文 池袋」とあることから、中世にはすでに近隣の地名(長崎・雑司ヶ谷・巣鴨・高田など)とともに確立していたと考えられる。 明治の廃藩置県が行われると、東京府(一部は浦和県から編入)に属し、1889年の町村制施行で、巣鴨村の大字となる。池袋が栄えるきっかけとなったのは、鉄道の開業である。上野駅 - 前橋駅間に鉄道を開業させていた私鉄の日本鉄道が、1885年に官営鉄道(新橋駅 - 横浜駅)との接続を目的に、現在赤羽線(埼京線)・山手線となっている赤羽駅 - 品川駅間の路線を開業させた。だが、この時には池袋の地に駅は設けられなかった。 その後、1903年に田端駅への支線を建設することになった。当初は目白駅での分岐が想定されていたが、地形や経由地などにおいて種々の難点が指摘されたため、それより北の台地上に新たに池袋駅を開設してここから分岐することになった。 大正から昭和にかけ、東上鉄道(今の東武東上本線)や武蔵野鉄道(今の西武池袋線)なども池袋へ乗り入れるが、これらはどちらも当初繁華街とはいえなかった池袋は起点とせず、当時の繁華街であった神田・巣鴨(市電が1912年には乗り入れていた)への乗り入れを前提としていた。その過程において池袋は仮のターミナル駅として開設されたが、その後の事情でどちらも都心への延伸を断念し、結果として池袋起点となったものであった。この頃は、巣鴨のほかに、白木屋があり王子電気軌道(今の都電荒川線、1911年に開業)と山手線が交差していた大塚駅辺りが繁華街であって、池袋は豊島師範(東京学芸大学の母体のひとつ)や立教大学など、学校が置かれたことから文教地区となっていった。 1960年頃の池袋 1933年に白木屋と京浜急行電鉄が共同で設立した京浜百貨店が1930年代に菊屋デパートの名で池袋駅に開店。そして東京市電(1943年に東京都電となる)が1939年に池袋駅前に乗り入れ、この頃から交通の結節点として、賑わいを見せるようになる。菊屋は1940年に武蔵野鉄道(現西武鉄道)に買収され、武蔵野食糧を開設。武蔵野デパートを経て1949年に西武百貨店と改称した。 また、東武百貨店が1962年に本店を開店して1964年に東横百貨店池袋店を買収し、1958年に開店した東京丸物池袋店は1968年に西武百貨店に買収されパルコになった。 新宿、渋谷と並ぶ副都心であり、近年は乙女ロードを中心に若い女性オタクの利用者が増加し、サブカルチャーの街として成長しつつある。高野之夫区長が文化事業や街の美化に取り組んだ結果、2013年の住みたい街ランキング3位になる程の人気スポットに変わりつつある[6](2018年は5位)。 現在池袋と名の付く地区の大半は、一時期西巣鴨町に属していた。東池袋二丁目には西巣鴨橋という橋が現存する。またサンシャインシティは巣鴨拘置所の跡地に立てられたものである。